目次
THA BLUE HERBとは?
いきなりですが、この漢字一文字
なんと読むかご存じですか?
草冠に言葉と音。
ありそうで、なさそうなこの漢字。
正解は
「THA BLUE HERB (ザ・ブルーハーブ)」
と読みます。
ブルーハーブの楽曲を聴いたことがあれば、
言葉と音が表す意味を理解してもらえるはずだ。
草冠についてはあえて言及はしないので…気になる方はググってみて欲しい。
ブルーハーブを簡単にご説明すると、
MCとトラックメイカー、そしてライブDJの3人から成る、北海道は札幌レペゼンのヒップホップクルー
彼らの特徴を短く説明すると、決してブレない主張と、固すぎる信念に、それらの表現方法が独特すぎ。
と、いった感じだろうか。
メッセージ性強すぎ。言葉に力がある。
グッとくることしか言わない。
雑な表現だけど、ほんとそんな感じ。
彼らがシーンに登場した90年代のシーンはキングギドラやライムスターたちの影響で”韻”が至上命題として扱われていた。
韻に対しての注目が高かった時代だ。
僕がブルーハーブと初対面したのは、2002年くらいだったと思う。NITROとかゴリゴリに聞いてた頃。
世間はファッショナブルにラップを聴くようになってきてて、ラップらしい曲が大人気な時代だった。
そんな時代に急に僕の耳に入ってきた
THA BLUE HERB
マジで色々な意味で衝撃だったよね。
まずラップが普通じゃなかったし、
ラップのリズムがむちゃくちゃ(当時の感想)
なんかむちゃくちゃ熱いこと言ってるし、
そして名前!ブルーハーブて!ってのが感想。(実は名前が一番衝撃だった)
気になり過ぎて、その日の内に買ったのが
あの日本語ラップシーンを代表する名盤「STILLING , STILL DREAMING」
でした。
ブルーハーブ概要
ブルーハーブを簡単に説明させて頂くと、レペゼン北海道で現在も活動を続けている3人組のヒップホップクルーのことを言います。
BOSS THE MCというラッパー
O.N.Oというトラックメイカー
DJ DYEというDJの三人組です。
ブルーハーブが活動を開始したのは、1997年
現在でこそ、田舎だろうが都会だろうがネットやSNSの力を使えば簡単に楽曲を全国に広めれる時代だよね。
ただ、90年代の日本は携帯が普及したばかり
でネットなんて普及してないもんだから楽曲を広めるなんて大仕事なわけで、
データで楽曲を送るなんて出来ないし、誰かに届けようと思ったら現物(CDやアナログ)にするしか方法がない。
ましてや音楽で飯を食っていこうものならコネクションや東京での活動がマストな時代だったんだ。
シーンの中心は東京だったから言ってしまえば東京じゃなきゃチャンスすら転がってこない時代。
そんな時代だから、普通なら長渕剛の名曲のとんぼの歌詞にもあるように”死にたいくらいに憧れた ”花の都大東京”のはずが、逆に大東京に中指を立てるスタンスを取り続けた人たちなんだ。
ことあるごとに東京のシーンやラッパー達を痛烈に批判し、俺らはここで勝負してる!
お前らにできるか?というスタイルを貫き通しその思想というか、アンチテーゼが評価され神格化されている、いわば”ニュータイプ” だった。
これだけ聞くと、ただ批判してんなら普通のラッパーと変わらないじゃん。
って思う気持ち良く分かります。
でもね、BOSSは違うんだよね。
なぜここまでヘッズはもちろんシーンや同業者からのプロップス(評価)を得ることができたのか?
それはヒップホップという文化の本質をBOSSが捉えていたからだと僕は思っている。
要は認めてもらうのか。認めさせるのか。の違いに近いのかもしれない。
ヒップホップにありがちな言語をあえて使用せず、オリジナルの鋭利な言葉とストイックなまでの表現方法。
それを体現する人間力こそが魅力なんだよね
あまりに妥協を許さない姿勢から一部ではブルーハーブ教と呼ばれたり、熱狂的なファン達は信者と呼ばれたりすることもあるほどに中毒性のある楽曲を発表し続けている。
北海道という極寒の地から、東京やチャラチャラしたシーンを冷静に見つめ、誰よりも熱く、妥協を許さず、一貫している姿勢がそうさせていることは間違いない。
今回はそんな地元北海道から
リアルなヒップホップを体現し続けている
「THA BLUE HARB」を紹介していきたい
THA BLUE HERBのメンバー
まずはメンバー紹介から。
結成された当初はMCの”BOSS THE MC”トラックメイカーの”O.N.O”の2人で結成される。
1999年よりライブDJとして”DJ DYE”が参加する形でブルーハーブに加入。
シンガーの“ERRY KOJI CHESTNUTS”が
度々楽曲に参加しており、第四のメンバーとしてファン達からは認識されている。
「THA BLUE HERB」のメンバー
・BOSS THE MC (MC)
・O.N.O (トラックメイカー)
・DJ DYE (ライブDJ)
BOSS THE MC (ボス ザ エムシー)
【名前】BOSS THE MC , ILL-BOSSTINO
【本名】清水和之 (しみず かずゆき)
【生年月日】1971年 10月 27日
【パート】MC
【出身】北海道亀田郡七飯町
【所属】THE BLUE HERB
THE BLUE HERBとして活動する時は
「BOSS THE MC (ボス ザ エムシー)」
名義。
個人で活動する時は、
「ILL-BOSSTINO (イル ボスティーノ)」
名義でも活動している。
幼少期などの情報は明かされていないが、
高校は市立函館高校を卒業しており、在学中1年間休学をして配管工のバイトをしたりして過ごしていたそうだ。
高校卒業後は、札幌大学経済学部へ進学するのと同時に札幌へ移住。
大学に通いながら北海道最大の歓楽街である
ススキノでキャバクラやクラブでアルバイトをしていた。
バイト中に店でたびたび流れていた、ブラックミュージックにのめり込み一時はダンサーを志し、クラブ通いを始める。
ラップ活動の原点
この頃、同じ札幌で活動をしていた、
Mic Jack ProductionのB.I.G JOEのライブを見て日本語でのラップ、カッコいいじゃん!と衝撃を受け、日本語でのラップに興味を持ち始める。
同時期に1994年にドロップされた、NASの名盤「ILLMATIC」の日本語訳の歌詞カードを読み、韻や言葉に衝撃を受ける。
それからは、独自に作詞や言葉について思考や研究を重ねていく。
だが、ラッパーに憧れたり、ラップがやりたくてラップを始めたわけではなさそうで、
元々バンドのボーカルをやっていたという経験もあり、本や詩を読んだり文学的に言葉について探求するのが好きだった。言葉に携わることが無意識にあってそれと合致したのがラップだった。
と、ラッパーになった理由を説明していた。
そんなBOSSがラップを始めた時にはすでに札幌のクラブ界隈では顔的な存在となっており、みんなからは自然と”BOSS”と呼ばれる存在だったそうだ。
BOSSと自然にそう呼ばれていたからそのままMCネームとして起用。
活動開始当初は、すでにツレみたいな存在になっていた、B.I.G JOEのサイドマイクをやらせてもらったりと、活動の場には困らなかった。
そして同時期にDJとして駆け出し中だった
”O.N.O (オー・エヌ・オー)”と出会い、彼のプレイする横でもマイクを握ったりと、共に過ごす時間が多くなっていく。
活動開始当初からBOSS&O.N.Oのスキルの高さに北海道ではすぐに認知度が高まり、彼らの名が全国に広まるのは時間の問題かと思われていた。
意識の変化
だが、1996年に開催された、
”さんぴんCAMP”がきっかけでBOSSの中で、ヒップホップに対する大きな変化が起こる。
それは、さんぴんによりすさまじいほどに盛り上がりを見せた東京のシーンに対する”憎愛”だった。
つまりさんぴんCAMPで、爆発的に盛り上がった東京のシーンに対しての悔しさ。
そしてさんぴんでいっきに知名度をあげていったラッパー達よりも自分達の方がカッコいい!と、いう強烈な”自負”から生まれた憎愛だったのだ。
東京のやつらに自分たちを認めさせたい。
俺らは生ぬるい覚悟で音楽をやっていない。
という、憎愛をテーマに東京はもとい、日本のヒップホップシーンに一矢報いたいという信念を基に1997年にTHA BLUE HERBを結成。
ブルーハーブの結成と同時に
”THA BLUE HERB RECORDINGS”を設立。
ここから東京のシーンを痛烈に批判する鋭利な歌詞。そして彼独特のフロウの原型が作られていくことになる。
O.N.O(オーエヌオー)
【名前】O.N.O (オー・エヌ・オー)
【本名】おのちゃん(以下不明)
【生年月日】1972年生まれ
【パート】トラックメイカー
【出身】北海道登別市
【所属】THA BLUE HERB
言わずと知れた、BOSSの相棒であり、ブルーハーブのトラックメイクを担当している。
BOSS同様に幼少期などの情報はあまりない
高校時代は世の中がバンドブームであったがバンドを組むことはもちろん、楽器を弾いたことすらなく音楽にハマった経験すらなかったそうだ。
そんなO.N.Oが音楽にハマったのは大学生の頃に出会った、90年代のヒップホップが始めてで、ハマったのとほぼ同時にDJとして活動を始めたという。
BOSSとは同い年で出会ったのは札幌のクラブだったそうだ。
BOSSがラップを始めるより少し前に、すでにDJとして活動を開始しており、クラブプレイを行っていく内にトラックメイクも行うようになる。
今でこそ色々なアーティストに楽曲提供をしているが、ブルーハーブの活動全盛期にはほとんど楽曲提供は行っていなかった。
一節には、彼のビートはBOSS専用という都市伝説が出回るほどに、BOSSのラップを生かすために一途なまでのビート制作を行ってきた。
ビート制作の意識
O.N.Oのトラックの特徴としてはシンプルなビートがあげられる。
余計な装飾は加えず、リズムやメロディに徹底的にこだわり独自のサウンドを生み出している
一方で、シンプルに聞こえるトラックながらそのビートやメロディは非常に複雑で緻密に計算されたトラックは、職人と評価されることもしばしば。
とあるインタビューでトラックメイクに対して聞かれたO.N.Oが面白い返答をしていたので紹介しておきたい。
O.N.OがDJ始めた当初、DJたるものトラックのネタを知らなければいけないという風潮があった。
だが、O.N.Oはこの風潮が大嫌いだった。
1990年代当時は、ほとんどのトラックメイカーがサンプリングに重きを置いていたのに対しO.N.Oは造形に近い楽曲制作を行っていたからだ。
まさにBOSS同様、アンチテーゼを根幹に置き、音楽に携わってきたってわけだ。
それ故全てのビートを狙って作っているから
偶然上手くできた。ということが一度もないとも語っていた。
そんな二人がタッグを組み音楽シーンに殴り込みをかけたことは至極当然の出来事だったのかもしれない。
これは余談だが、多ジャンルをよく聴くBOSSとは対照的に、熱心に音楽を聴いていた時期はほとんどなく家で聴いたり、移動中に聴いたりもしない。
音楽を聴くのは、楽曲の制作中かクラブでプレイ中しか聴かないというから驚きである。
DJ DYE (ダイ)
【名前】DJ DYE
【本名】不明
【生年月日】不明
【パート】DJ
【出身】北海道
【所属】THA BLUE HERB
1999年に始めてLIVE DJを行い現在に至るまで実に全国100カ所以上でBOSSの背中を支えてきた。
もともとはO.N.Oが働いていた服屋に客として訪れており、O.N.Oとの親交が始まった。
クラブに誘われたりもするようになりO.N.Oのプレイを目の当たりにしていくなかで、自身もDJとして活動することを決意する。
LIVEではBOSSのラップを如何に会場にいる人全員にストレートに届けるか?か最善に考え
時に激しく、時に静かな言葉を最良の形で送ることを最も得意としている。
ブルーハーブ以外でも、BOSSのソロプロジェクトILL-BOSSTINOの背中も支える。
楽曲ではO.N.Oが相棒なのだが、ライブではDJ DYEが相棒として破天荒極まりないBOSSを支えている唯一無二の存在なのである。
THA BLUE HERBの結成
ブルーハーブの結成秘話に入る前にブルーハーブの名前に関する情報を紹介しておきたい。
ブルーハーブと言えばほとんどの方が、甲本ヒロト、マーシー擁するTHE BLUE HERTSを連想せずにはいれないだろう。
それもそのはず。
ブルーハーブはブルーハーツのサンプリングで命名されいる。
命名したのはBOSSであり、ブルーハーツは元々好きで楽曲も良く聞いていたという。
グループを作ろうという話になって思い付きで「THE BLUE HERB」はどう?って発案したところO.N.Oが快諾。
んじゃ、THEをTHAに変えて、ザと読む方がヒップホップっぽいよね?っていうノリから、
「THA BLUE HERB」と命名された。
今のBOSSの印象からはもっと意味深な秘話があると思いきや、ノリで命名されたっていう事実に親しみを感じずにはいられない。
シーンへの憎愛
さて、本題の結成秘話について感情移入全快で紹介していこうと思う。
BOSS &O.N.Oとして活動を始めた二人は、ライブで実績を積み、自費でデモテープを配ったりして札幌を中心に彼らの知名度や人気は北海道中に広がりをみせていた。
まだ音楽で飯こそ食えないまでも確かな手応えを感じていたのだ。
だが、運命の1996年…二人の人生を大きく左右する出来事が起こる。
そう「さんぴんCAMP」だ。
東京で活動しなければ飯が食えない。
この言葉のお手本とも取れるイベントが開催され、出演していたアーティストたちは、どんどんアナログやCDを販売し知名度もお金も得ていく姿を目の当たりにしたのだ。
更に、この異国の地で開催された、たった1日だけのイベントによって北海道のヘッズたちも東京のシーンに釘付けになってしまった。
やっとの思いで北海道中にその名を広め、さぁこれからだ!って時に東京のシーンにごっそり横取りされてしまったのである。
腹が立つというか、なんというかやるせない気持ちになるのは当然のことだろう。
そして、さんぴん後に人気絶頂となったラッパーやDJたちは地方の箱(クラブ)に呼ばれたり全国各地を飛び回るようになり、当然の如く北海道へもやってくる。
そのライブを何度も見たBOSSたちにはある疑問が浮かんできた。
それは「こいつら、カッコいいか?」と、いう疑問だ。
それは、ラップがカッコいいとか、ビートがカッコいいとかっていう話だけではない。
ヒップホップという文化の中で飯を食っている人間としてカッコいいか?という意味だ。
俺たちは、楽曲制作からプロモーション、レコ屋への売り込みに、イベント開催まで自分たちを取り巻く全てを自分達で行う。
それがヒップホップだろう!という哲学がBOSSにはあったのだ。
つまり、そういうヘッズたちに見えない泥臭い部分の活動こそが、アーティストの本質だろうと訴えたかったのだ。
だが、東京のアーティストたちにはそれが感じられなかった。
もちろん、環境や活動している場所の違いはあれど、俺らの方が努力しているという自負があった故にそういった感情が芽生えたんだと思うと、BOSSは語っていた。
BOSSの視点から見ると、そういう感情を抱くのも納得がいくかもしれない。
以下はBOSSのインタビューから。
さんぴんが開催されて、多くのファンたちが東京のヒップホップに流れていってしまった。
むちゃくちゃ東京のシーンが盛り上がっていて、やつらがカッコいいかどうかは別として、俺たちはリアルなヒップホップをやっている。
最下層部から這い上がり全国に俺らの存在を知らしめたかった。
とにかく悔しくて東京のやつらに俺たちのヒップホップの方がカッコいいと言わせたかった。
それだけだった。
このインタビューからも分かる通り、ただ憎いだけではない。
間違いなく憧れや嫉妬も当然ある。
でも俺たちの方がカッコいいんだ!
という、ストイックなまでのエゴなのだ。
まさに”憎愛”という言葉がぴったりなのではなかろうか。
それ故、敢えて東京のシーンを批判するスタイルを確立するのだが、批判するに値する活動と質を最重要課題にするという苦行を行うことで憎愛の表現方法としたのだ。
その活動の出発点として、
「THA BLUE HERB」を結成し、
自由な表現を邪魔させないために、レーベル「THA BLUE HERB RECORDINGS」を立ち上げ活動していくことになる。
THA BLUE HERBまとめ
今回はTHA BLUE HERBのメンバー紹介、そして結成までの軌跡を中心に紹介させて頂いた。
結成された背景には、強烈なまでの思想がありそれを体現するためだけにブルーハーブが存在していることを理解して頂ければライター冥利に尽きるというものだ。
今回はここで終わらせて頂くが、次回はTHA BLUE HERBの最たる特徴でもあるBOSSのラップ、そしてO.N.Oのトラックにスポットを当てて紹介していきたいと思っている。
次回の記事を読んでもらうことでよりブルーハーブの楽曲を楽しんでもらえるはずだと自負しています。
公開まで今しばしのお待ちを!
それではまた次回お会いしましょう。