RINO LATINA II とは?

引用元:RINO LATINA II OFFCIAL WEB SITE さん

調子はどうだい? イカした兄弟! おっ始めるぜ、イカれたShow Time!

この煽り文句を知っている人はどれだけいるだろうか?

今回紹介するラッパーは、今でこそ数々のラッパーが多用するライブでの煽り文句を数々生み出している生粋のラッパーであることを先に伝えておきたい。

じゃんけんで”最初はグー”を編み出したのは、志村けん。逆ギレという造語を編み出した、松本人志など、おおよそレジェンドと呼ばれる人物が編み出した言葉は時代を超え様々なシーンで活用されている。

今回紹介するラッパーも例外ではなく、日本語ラップシーンではレジェンド中のレジェンドであり、海外のシーンでは「SAY hoo!」や「SAY yeah!」は当たり前の煽り文句としてあるのだが、これを日本語で「言えよ、hoo!」や「叫べ、yeah!」へと言い換えた最初の人物だ。

余談が長くなってしまったが、今回は、皆さんにこんな質問をぶつけてみたいと思う。

日本で抜群にラップが上手いラッパーは誰?

ラップが上手いというと、聴く人の好みや感性にもよるので定義するのが難しいとは思うのだが、あなたなら誰だと答えるだろうか?

今回紹介させて頂くラッパーの特徴は以下だ。

・90年代に活動を開始

・YOU THE ROCK★やキングギドラ、ブッダブランドが同世代。

・ラップやヒップホップという文化を日本に浸透させた張本人

・TwigyやDevLarge、ジブラも認めるほどにラップが巧い

・真っ赤なポロシャツに、パンチパーマ。

・「証言1、投げんなサジ」で、お馴染みの人

ここまでヒントを与えれば、熱狂的なヘッズでなくてもお分かり頂けるだろう。

今回は「RINO LATINA II (リノ・ラティーナ・ザ・セカンド)」を紹介していこう。

RINOは、

LAMP EYE (ランプアイ)
(後のKAMINARI-KAZOKU)

に、所属し当時の日本語ラップ界はこの人を中心に回ってたんじゃないか?というくらい、節目・節目に登場する、とにかくヤバイおじさんがRINOなのだ。

彼を語る上で外せないのは、クラッシック曲「証言」への参加、ラッパーで始めてフジロックフェスへの出演、そして、日本語ラップコンピレーションアルバム 24 HOUR KARATE SCHOOL JAPANにも参加しているということだろう。

所属しているグループも伝説なら、参加した楽曲やステージも伝説級だし、なんと言っても彼の功績が伝説となっているもんだから頭が上がらない。

今回も出来る限り、プロフィールや活動遍歴、楽曲に至るまで情報をかき集めてきた。

ぜひ、最後まで読んで頂ければ幸いだ。

こんな情報もあるよ!って方もいれば、ぜひコメントに残して頂けると嬉しい限りです。


RINO(リノ)のプロフィール

その瞬間からオレのカーニヴァルは始まってるんだよね

「名前」
RINO LATINA II
(リノ・ラティーナ・ザ・セカンド)

「本名」
鳥居 淳 (とりい じゅん)

「生年月日」
1973年 4月22日

「職業」
ラッパー

「出身」
マニラ → 東京都港区白金

「所属」
LAMP EYE , 雷 , KAMINARI-KAZOKU

「その他」
鳥居亭 店主

1973年 4月22日 フィリピンの首都マニラはハッピー・サンデー(復活祭) 真っ只中だった。

そんなおめでたい日に、フィリピン人の父、日本と中国のハーフの母のもとに彼は生まれた。

マリアッチ(音楽隊)でカッコつけだった彼の父は、自分の名前と同じ名前を彼に名付けたそうだ。

セフェリノ・ラティーナ・ザ・セカンド(セフェリノ二世の意)と名付けられた彼は、その後のMC名を本名から切り抜き、RINO LATINA II (リノ・ラティーナ・ザ・セカンド)と名乗るようになった。

生まれてから5歳くらいまでは、マニラで生活をした後、日本へ来日し、幼少期~現在まで東京の白金に在住している。

中学校3年生の頃に日本国籍を取得し、名前を日本名の「鳥居 淳」に改名。

中学生の頃からダンスを始め、まだ日本人が踊ることができないサウンドで踊りたいという思いから様々な楽曲をディグる(掘る)中で、ブラックミュージックに出会う。

高校生の頃、バイトでとあるクラブの内装を手掛けた友人より「とにかくすごいクラブができる」という噂を聞きつける。

そのクラブの名は「Droopy Drawers (ドゥルーピー・ドゥルワーズ)」といい、当時のヒップホップシーンを語る上でまず最初に名前が上がるほどの伝説のクラブだ。

RINOがクラブ通いを始めた1980年後半の東京は、バブル期でもあり、どこのクラブもユーロビートやディスコミュージックで溢れていた為、RINO少年の好奇心を満たすクラブはほぼ存在しなかった時代だった。

そんな時代にDroopy Drawersを訪れたRINOはかつてないほどの衝撃に襲われることになる。

それもそのはずで、Droopy Drawersはブラックミュージックを専門にする数少ないクラブであり、まだシーンとは呼べないながらも、日本のヒップホップが聞ける唯一の場所だった為、好奇心旺盛なRINOの欲求を満たすには絶好のクラブだったのだ。

そしてRINOが最も衝撃を受けたのは、DJ HONDADJ KRASH(クラッシュ)とMURO(ムロ)が所属するKrush Posse(クラッシュ ポッセ)などが、日替わりでフロアを盛り上げていたことだった。

そんなレジェンド達のステージを目の当たりにし、新しいダンスステップを覚えてはDroopy Drawersに行き、ステップに合うビートを求めて夜な夜なクラブに入り浸る生活が始まる。

当時のことをRINOは「いいことも悪いことも全てを教わった場所。俺に取ってはあそこが学校だった。俺の最終学歴はドゥルーピー大学なんだ。」と語るほどDroopy Drawersでの経験は大きなものとなる。

まさにこの瞬間から彼のカーニヴァルは始まっていくのだった。



LAMP EYE (ランプアイ)の結成

誰も真似できないことをしたかった

引用元:beatzone さん

当時、高校生だが立派な日本語ラップヘッズとなっていたRINOは、Droopy Drawersで今後の人生を左右する人物との邂逅を果たす。

その男は駆け出しのDJとして活動をしており、平日ではあったもののDroopy Drawersの見習いDJとして活動しており、レジェンドDJ KRASHの愛弟子として名高い、

DJ YASその人だった。

そして同じ頃、GAMA (後のヨシピィ・ダ・ガマ)もDroopy Drawersへちょくちょく顔を出しており、友達の紹介でRINOと邂逅を果たし、RINOに教わる形でダンスを始めたりと意気投合し遊び仲間となっていく。

そんな中、事件が起こるのであった。

1992年RINOが19歳の頃だ、兼ねてよりシーンの最前線で活動していたMURO , TWIGYが後に伝説となるグループ「MICROPHONE PAGER」を結成し、シーンを席巻したのである。

当時は、ダンサーの前座でラップが行われていたり、DJをお膳立てするためにラップをするような時代であったのだが、そんな時代に圧倒的なラップスキルで他を圧倒し、ラップを全面に押し出すパフォーマンスをするグループはまだ珍しかった。

MICROPHONE PAGERのライブを目の当たりにした19歳のRINOは、雷に打たれたような衝撃に襲われ、狂ったようにリリックを書き始める。

そして、始めて納得のいくリリックが書けたとある日、居ても立っても居られなくなり、DJ YASにラップを聴いてもらおうと自宅のある五反田からわざわざ六本木のDroopy Drawersまで自転車で行き、YASにラップを聞かせる。

DJ YASは、当時を振り返り

DJ YAS

あの時代にDJにラップを吹っ掛けてくるヤツなんていなかった。こいつとなら面白いことができると、確信に近いなにかを感じていた。


と、語っており、当時からRINOのHIPHOPに対するバイブス(熱量)を感じ取っていたそうだ。

RINOのラップを聴いたYASは、早速今からライブをしようと言い出し、その日の内に初ステージに挑みラッパーRINOとしてのキャリアがスタートした。

そして、DJが見つかるまで。という期限付きでDJをすることになるが、DJ YAS以上の相棒は中々見つからず、現在まで相棒として活動するほどに相思相愛な仲となる。

ラッパーとしてキャリアをスタートさせたRINOにはこういう思惑があった。

誰にも絶対真似できないことをやりたい。

このバイブス(熱量)に感銘を受けたDJ YASは、グループを作ることを提案し、ダンサー仲間として行動を共にしていたGAMAを誘う形で「LAMP EYE (ランプアイ)」を結成することになる。

ちなみに真相は定かではないのだが、このLAMP EYEというグループ名は目が光る深海魚を意味していると言われており、地下の地下、最深部から日本の音楽シーンを改正するべくアンダーグラウンドからオーバーグラウンドを睨むという意味合いなのだとか、、、

LAMP EYE
・RINO (MC)
・GAMA (MC)
・DJ YAS (DJ)

LAMP EYEといえば日本語ラップシーンを語る上で、もはや伝説化されているグループなのだが、ドラマティックな出会いや、出来事があったわけではないのだが、逆に面白さを感じずにはいられない。

ここで数少ないLAMP EYEの楽曲も紹介しておこう。


下剋上(げこくじょう)

引用元:HIP HOP FLAVA さん

1995年にドロップされたLAMP EYE名義初となるEPが「下克上」だ。

タイトルと同名の楽曲「下克上」は誰しもが聞いたことがあるクラッシック曲だろう。

他にも下克上同様にLAMP EYEの名曲「暗夜行路」も収録されており、1枚で何重にも楽しめるEPに仕上がっている。

「下克上」
1.一二三
2.暗夜航路
3.下克上
4.暗夜航路(Inst)



下克上


おっと、そうそう。俺ら、堂々。いくぜ、ガンガン。
乗れよ、ドンドン。すると、ガンガン気分は上昇!

このフレーズは一度でも聴いたことがある人なら忘れられないフレーズだろう。

頭や体を振らずにはいられないシットだ!


暗夜航路

この暗夜行路は、聴いてもらえば一目瞭然なのだが、DJ YASの超絶ドープなビートにRINOの秀逸としか言えないラップがドハマりしており、この楽曲によりRINOの名がシーンに響き渡ったと言われる作品なのだ。




Lamp Eye Flava

引用元:Amazon さん

「Lamp Eye Flava」
01. Lamp Eye Flava
02. Droopy Drawers
03. 響言 ~Version 2~
04. ある愛の行方
05. Sign
06. Open Your 3rd Eye
07. The World Tour
08. Interlude
09. D.D.D (Da Deadly Drive)
10. 日本語ラップ is DEAD? ~DJ Yas Remix Version 2~
11. 証言 ~Original Analog Version~

Lamp Eye Flavaについては後々のネタバレになってしまうので説明は控えさせて頂くが、LAMP EYE名義では14年振りとなる楽曲なので、ぜひ聴いてみて欲しい。

Spotify


Apple music

ちなみにこのアルバムには証言のアナログVerが収録されている。

さぁ、聴くしかねぇぞ!





雷(かみなり)の結成

雷の怒り、まさに雷!

引用元:Amazon さん

LAMP EYEとしてDroopy Drawersを始め各所でライブ活動を開始した1992年、活動と同時にRINOのラップスキルは各所でプロップス(評価/支持)を得ていく。

そんな中、同年にYOU THE ROCK★が主催した「BLACK MONDAY」がハードコアなB-BOY達の認知を得て、当時最前線で活動していたDJ、ラッパー、ダンサーたちが集まるイベントになっていた。

このイベントは92年から西麻布のCLUB ZOAで毎週月曜日に始まったイベントであり、当初はみんなで焼酎を飲みまわし、マイクを奪い合い、本気のラップを披露するホームパーティ的なイベントだったようだ。

そのうち、マイク争奪戦が過熱していき、必然的にラッパーたちのスキルも向上し、シーンから注目されるようなイベントとなっていった。

そこに集まっていたのは、RINO , GAMAのLAMP EYEを始め、主催のYOU THE ROCK★やG.K.MARYAN、TWIGY、ラッパ我リヤ、MUMMY-D、時にZEEBRAやMURO、Shing02などそうそうたるメンバーが参加していた。

そしてこのイベントは、BLACK MONDAY暗夜行路亜熱帯雨林鬼だまり という伝説的なイベントへ時を追うごとに変化していき「盃ナイト」と呼ばれる一晩で20本以上のテキーラが空くイベントへと発展していく。

そんな中、BLACK MONDAYの出演者へ、1994年にテレビ東京で放送されていた「浅草橋ヤング洋品店」通称アサヤンの「若きラッパーのど自慢大会」というコーナーへの出演依頼が舞い込んできた。

当初は、商業目的のナヨナヨした番組に本物志向の自分達が出演なんかしてられない!という思いから断ることも検討されたのだが、オーバーグラウンドをぶち壊してやろうぜ!という思いから出演を決める。

そこで結成されたのが、そう、雷(カミナリ)なのだ。

雷はRINOとDJ PATが中心となり「なにか面白いことがしたい」という思いからしのぎを削っていた出演者たちに声を掛け、参加したメンバーはRINOの声掛けなら、、ということで参加を決める。

メディア露出は、これまでマスメディアを敵視していたアングラシーンの面々に取って相当な意気込みが必要だったに違いないだろうが、それほどまでにRINOの圧倒的なラップスキルは他のラッパーたちにも安心感を与えるほどにズバ抜けていたことが伺える。

「雷」のメンバー
・RINO
・GAMA
・YOU THE ROCK★
・TWIGY
・G.K.MARYAN
・DJ YAS
・DJ PAT
・YOTTY

そして真偽は定かではないが、この若きラッパーのど自慢大会はそもそも出来レースで優勝グループは最初から決まっていたそうなのだが、雷のパフォーマンスが圧巻過ぎたため、ディスされたとは言え、高木完や近田春夫らは認めざるを得ず、雷が優勝してしまったそうだから驚きだ!笑

雷の怒りまさに雷!を体現した伝説なエピソードとなったのだ。


浅ヤン / 若きラッパーのど自慢大会

テレビ主演により全国に名を轟かせた雷だが、雷名義では1994年に発表した「カミナリ / 夜ジェット」のみとなり、その後は雷名義での楽曲は発表されることなく、メンバーそれぞれの活動が活性化し、活動は休止状態となっていく。

2003年には、伝説として語り継がれることになる「雷おこし」というイベントを開催し、練マザファッカーのD.ODJ AMEKENDJ MISSIEを加え、名を「KAMINARI-KAZOKU」に改名し、活動を再開。

2004年にはKAMINARI-KAZOKU名義で二枚のアルバムをドロップし、カルト的な人気を獲得するが、2011年2月、シングル「THUNDER SONIC」をリリースした、翌月の3月にTWIGYが突如Twitterで「KAMINARI-KAZOKU.としての無期限活動休止宣言」し、現在までライブで一夜のみの復活などを除いて、活動は行われていない。

アナログ12inch
1997年 カミナリ c/w 夜ジェット
2003年 雷電 c/w ロディオ・ドライヴ
2003年 Death disco c/w イカヅチ
2004年 Brotha soul brotha

シングル
2002年 NEXT MOVIE
2004年 G.C.C. ‐get crazy cruising-
2004年 哀愁’97
2010年 2U
2011年 THUNDER SONIC
2011年 雷警報

アルバム
2004年 大災害
2004年 330 more answer no question





”証言”の画策

引用元:Amazon Music さん

LAMP EYE、そして雷という伝説的なグループで活動をしてきたRINOだが、LAMP EYE、雷、そしてRINOの名を伝説へと押し上げた楽曲が、ここ日本には存在する。

この楽曲は、本物志向のアンダーグラウンドシーンがセルアウト(商業目的)シーンを痛烈に批判するという構図を持つ楽曲だ。

その曲こそが、日本最高のクラッシックにして、最大級の評価を得ている「証言」なのだ。

この楽曲は、LAMP EYEが主体となり、YOU THE ROCK・TWIGYなど雷のメンバーを始めDev LargeやZEEBRAなど、今も色褪せぬラッパーたちを客演に迎え1995年に制作され、アナログ盤が枚数限定でドロップされた。

翌1996年には、アナログがヒットし過ぎたせいで、CDでもドロップされ、多くのヘッズが手に取り、日本一のクラッシック曲となった名曲なのである。

「証言」参加メンバー
証言① RINO LATINA II
証言② YOU THE ROCK☆
証言③ G.K.MARYAN
証言④ ZEEBRA
証言⑤ TWIGY
証言⑥ GAMA
証言⑦ Dev Lrage
※本編以外に収録↓
証言⑧ YOTTY
証言⑨ UZI

ビートを担当したのはDJ YASで、ジョン・ル・カレ原作の「死者にかかってきた電話」と、シドニー・ルメット監督が映像化した作品「恐怖との遭遇」のサントラ盤に収録されている「Who Needs Forever」をネタにしてMIXしたものなのだとか。

Who Needs Forever

DJ YASがビートを作成し、RINOが参加して欲しいラッパーにすれ違う順に声を掛けて画策されたのだが、この名盤がどのように制作されたか気になるところだ。

発案者のRINOが

俺が証言1と、始めるからシーンに対する想いを各々がラップして欲しい

たったのこれだけなのだ。

日本一の名盤と言われる証言だけあって、緻密な計算と、思惑があって制作されたと思いきや、実に単純なコンセプトしかなかったというから驚きだ。

ただ、この単純なコンセプトが逆に証言を日本一の楽曲へと押し上げる。

証言が制作された根幹には、徐々に形作られてきた日本のヒップホップシーン(オーバーグラウンド)が商業目的にのみフォーカスされ、本物のヒップホップという文化を体現している自分たちを雑に扱っていた事実があった。

そんなフラストレーションをぶちまけるが如く制作されたのだ。

楽曲の収録では、それぞれのシーンに対する不満を吐き出すと同時に、ライバルと言い換えてもいいラッパーたちが集まって録音をするもんだから、こいつには負けたくない俺の方がHIPHOPに対して熱い思いがある。という熱量がこれでもか!と、込められた。

更に当時は、1発REC(録り)ができなきゃダサいという風習があったそうで、1発で誰もよりもヤバイバースを録ることに各々が躍起になっていた。

これだけの熱量が込められた証言は、偶然の一致というより、すべて必然の元に出来上がったのだ。

ここで、熱量の発射口でもある、RINOのバースを紹介しておきたい。

証言 投げんなサジ
ことの重要性理解してない腑抜け恥じ
マリアッチ 番手はオレ RINO
バンデラスよりもド派手に登場
飲み込んでやるぜ大東京
行く先々で巻き起こす大騒動
大膨張し止まらない勢い 衝突は避けられない
平成8年 形勢は 逆転 準備万端はっちゃけて行くぜ
サクラ無し穴蔵から エンジン全開で出発 因果(韻が)鉄道
煙突からモクモク 全国に向け撒き散らす煙害
もはや射程圏内だぜ お前の既知に 忍び寄る影は未知
鼓膜を切り裂きジャックを入力
真っ赤かに火が付くターンテーブル
嘘八百並べたてて通せんぼ するヤツに突き刺す針千本
偶然じゃないさ 全て必然
増え続ける複製人間も落選
超バッド ウザったい現状打破
何回でも行くぜ 俺は超マジだ

※後に発表されたCD版のリリックを記載

リリック(歌詞)も秀逸ながら、フロー(歌い方)も巧いの一言。

まさにレベチってこういうことを言うんだろうと思わせてくれるバースだ。


証言 PV




さんぴんcampへの出演


90年代のシーンを語る上で外せない出来事が、1996年に開催された「さんぴんCAMP」だ。

このイベントも証言同様にメジャーシーンへのアンチテーゼとしてアングラ達が企画した大・大・大イベントだ。

もともと、さんぴんcampの画策時点でLAMP EYEは呼ばれる予定ではなかったそうなのだが、開催前年にドロップされた証言があまりにもシーンを騒がせてしまったものだから呼ばない訳にはいかなくなり、参加することが決まったという裏話があった。

さんぴんcampでは、RINOのソロでのステージが収録されているが、あからさまに他のアーティストとは異質な雰囲気を醸し出し、あからさまに他を圧倒するステージを披露していた。

そして、さんぴんcampで一番の盛り上がりを見せた証言でのRINOのバースでは「証言1 俺RINOから送ろう~」のリリックを「要件1 投げんなサジ~」とリリックを替え、バースを披露。

自分達が知っているリリックではないリリックが披露され、会場のヘッズ達が唖然とするのと同時にいや、これも証言だ!と頭を振る光景を一人楽しんだと言うエピソードがある。

なぜ、リリックを変えて披露したのかは不明なのだが、さんぴんCAMPで披露されたRINOの新しいリリックは、後にドロップされた証言CD版に収録され会場にいたヘッズたちは腑に落ちたのだとか。笑


さんぴんcamp 証言




証言アナログVer

Rhyme Schemeさんが、素晴らしい動画をアップしてくれているのでぜひ視聴して欲しい。

リリックを記載してくれてるのも嬉しいが、韻も分かりやすく表現してくれているので本当にありがたい限りだ。

補足しておくと、この動画に収録されているRINOのバースが最初に発表されたアナログ版収録のバースであり、さんぴんcampで披露されたバースは、翌年に発表されたCD版に収録されたバースだったので会場のヘッズたちは始めて聴くバースに唖然としていた。



RINOの楽曲

引用元:Red Bull 64 Bars Youtube

ここまでRINOの魅力を余すことなく紹介してきた。

論より証拠。説明より楽曲で彼のラッパーとしてのヤバさを確認して欲しい。

そこで、僕なりにおススメの楽曲を3曲紹介していきたい。

RINOの楽曲を聴いたことがなかった人も、もっと聴いてみたいという人もここで紹介する楽曲から自分なりにディグっていって欲しいと思う。



夕陽のタンガンマン

1996年にドロップされた、RINOのラップの巧さが顕著に現れている楽曲だ。

この曲はさんぴんCAMPでも披露され、RINOの代表曲と言っても過言ではない。

随所に懐かしのネタを放り込んでくるあたりに味のある一曲としても有名な楽曲だ。


R.L.Ⅱ

2001年にドロップされたRINOの初公式シングルがこの「R.L.II

始まりから終わりまで終始ラップを収録しているかなりストイックな楽曲だ。

オンビートからオフビートまで楽しめるRINOらしさ全快の楽曲に酔いしれること間違いなし!


Red Bull 64 Bars

最後に紹介するのは、RINOにしては珍しくチルな楽曲だが、活動全盛期の頃から変わらない巧みなフローに、オンビート・オフビートを使い分け、堅い韻でグルーブ感を演出するセンスの塊のような楽曲だ!

選ばれしラッパーしか参加できない、RedBull主催の企画で発表された曲名のない楽曲。

RINOのイメージをぶっ壊してくる、一度聴けば癖になるそんな仕上がりになっている。



RINO まとめ

今回は抜群にラップが巧いラッパーRINO LATINA IIの魅力を余すことなく紹介してきたのだが、魅力は伝わっただろうか? 伝わったよね?笑

90年代から活動を開始し、現在シーンの第一線で活躍しているラッパーたちに多大な影響を与え、憧れられた男がいたと、分かってもらえるだけでも充分だ。

この記事で最も伝えたかった、RINOの吐く言葉やフローを敢えて文字にして説明したいのだが、僕の語彙力では無理があるので、彼のインタビュー記事を紹介させて頂きたい。

韻っていうのは、これまで重要視したことはそんなに無くて、言葉一つ一つにどれだけの力を入れられるかどうかっていう方が俺は醍醐味だったし、自分と違うMCと差をつけるところだと強く言える部分だから。(ラップっていうのは)韻遊びじゃなくて、世の中で生きてて、自分なりの意見を持ってストレートに伝えられるか、だから。百回韻を踏んで「バカ」って言うのと本当に気持ち込めて「バカ」というのでは、気持ちを込めている方が強いと思うし。

引用元:gensyokuneon.comさん

これが彼のリリック、いやラップに対する向き合い方なんだと思うと、巧いという表現がしっくりくるし、巧いという表現さえ霞んでしまうような気もするが、彼の原点なのだ。

また、現在のシーンに対する意見を求められた際には、

「今のシーンがあるのも自分たちが作り上げてきた土台の上に様々なラッパーたちが独自の解釈でシーンを盛り上げているのを痛感する。それをブームで終わらせるか、終わらせないかもやっぱり自分たちの責任だと思う。自由に対しての責任はあるが、それを果たせば逆に自由は広がる」

と、語っており黎明期のシーンを支え、シーンをメジャーに押し上げた第一人者が語る言葉にはやはり重みしか感じられない。

新たなラッパーが星の数ほど生まれる中、遠くで輝きを放ち続け、次世代を見守るそんな男がRINO LATINA IIであり、レジェンドと呼ばれる由縁なのだろう。

今後も活動に期待するばかりだ。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう♪

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