12/02 ”ケモノミチ” ドロップ

皆さん、NITROの前編はお読み頂いただろうか?

今回は後編として、残りのメンバーを紹介していきたいのだが、この記事を書いている12/02現在、以前から言い続けてきた3作連続ドロップの第三弾が配信開始された!

第一弾は「FIRE」往年のNITROを彷彿とさせるトラックに、熟練度を兼ね備えたメンバーのラップ冴えわたる「お仕置きチューン」

第二弾は「Choose One」ディープなトラックに今のシーンや社会を揶揄するような大御所ならではの言葉が刺さるような留まるか?抗うか?選択を迫られるような楽曲だ。

そして今回の第三弾は「ケモノミチ」オープニングはシンセの音から始まり、語りかけてくるようなSUIKENのラップに続いて、NITROの特攻隊超DELIのバースが始まると頭を振らずにはいられないビートへ様変わりしていく。

そこからはBIG-ZAM → DABO → XBS → GORE-TEX → DABOへのマイクリレーが展開される。

最後のDABOのバースでは短い小節ながらメッセージ性の強いリリックが刺さる。

この曲はNITROの盟友DJ WATARAIがプロデュースを行っており、往年の鉄板の布陣での楽曲はNITROファンにはヨダレだらだら案件であることは間違いないだろう。


ケモノミチ

12月中旬には、11年ぶりのアルバムがドロップされ、先行シングルも収録されているのでアルバムという一枚の作品の中でこの3曲がどういう流れで収録されるのかが、楽しみで仕方がない。

さて、ここからは本題の後編をお届けしていこうと思う。

後編からでも充分に楽しんでもらるとは思うのだが、DABOの主観でメンバーたちとの出会いやストーリーが展開されていくので前編から読んでもらえた方がより面白さが伝わるはずだ。


👇NITRO前編はこちらから👇

http://godbird.net/artist/nitro-1st/

では、早速後編を始めていこう。

NITROメンバー達との出会い

前編で紹介したNITROメンバーの集結は、DABOを主観として紹介してきた。

DABOとK-BOMBのイベントに飛び入りしてきたラップ初心者SUIKENと出会い、

MUROから朝飯に誘われ乗り込んだ車の運転手をしていたGORE-TEXとDABOが出会い、

そして、ひょんな出来事からMURO宅にお邪魔していたDABOたちのもとに雷のメンバーが訪れなぜか一緒にいたMACKA-CHINとDABOが出会った。

前編では触れなかったのだが、この4人が出会いNITROとして活動をしていく上で、大きなターニングポイントがあった。

それはSHAKKAZONBIEのEPにDABO , SUIKEN , GORE-TEX , MACKA-CHINが参加したことだ。

それに加えて今回の後編記事で紹介していく、XBS , S-WORD , DELI , BIG-ZAM と出会うことで、NITROでの活動を本格的にスタートさせていくことになる。

何度も言うが、今回の記事はDABOの「札と月」からほとんどを引用させて頂いているので、ぜひ札と月を手に取りDABOの言葉で紹介されているメンバーとの出会いも読んでみて欲しい。

引用元:Amazon さん




XBS (エックスビーエス)

【名前】XBS (エックスビーエス)

【本名】深見 展啓(ふかみ のぶひろ)

【生年月日】非公開

【パート】MIC , カメラマン

【出身】日本

【所属】NITRO

MC名の由来は「Extra Bass Speaker」の頭文字を取って名付けられた。

Extra Bass Speakerの言葉通り、声の低さが持ち味で、どんな楽曲においても自身のライミングやフローを崩さず、オリジナリティを貫く数少ないラッパーの一人だ。

大卒であることは間違いないのだが、青山学院二部(夜間)卒業との情報もある。が、真偽は定かではない。

NITROの活動が活性化した2003年に、GORE-TEX , S-WORDと共にファッションブランド「Nitrow(ナイトロ)」を立ち上げ、同年 株式会社UNDERGROUNDを設立。代表に就任する。

Nitrowはブランド名の版権や意匠登録などの関係で2005年に「NITRAID(ナイトレイド)」に改名。

現在は自身のブランド「EXB4SS」を立ち上げディレクションやデザイナーとしても活動。

また、FLYmagazieのカメラマン、クリエイティブディレクターも行うなど、音楽活動以外でも、その才能を遺憾なく発揮している。

XBSは高校時代にMACKA-CHINとすでに出会っており、HIPHOP談義を良くしていたそうだ。

その後大学へ進学し、大学生活を送る中でDABOたち、後のNITROで活動するメンバーと邂逅。

前編MACKA-CHINの項でも紹介した通り、当時はDABO達”CHAOS”組、MACKA-CHIN達”CAVE”組とホームにしているクラブごとに二極化していた。

XBSはMACKA-CHINと以前から知り合いだった為、CAVE組にいてCHAOS組とも交流を深める中で必然的にDABOと出会う。

当時のXBSは大学に通う傍らで、バイトに明け暮れていたそうで、夜中にクラブで散々騒ぎ、ふらふらになりながらも、遅刻せずにバイトへ行くなど真面目な性格であった。

そんな生活を送っていたこともあり、みんなで集まる時にも、出会ってから帰るまで寝ていることも珍しくはなく、XBSの寝言にみんなで爆笑したりしていたそうだ。

ただ、この頃からやる時はやる。という生真面目な性格から後に、NITRAIDや会社設立時には最前線に立ち続けたりと、メンバー達から絶大な信頼を得ている。

メンバー内でもXBS , S-WORDは無口なキャラでシャイな一面を持つのだが、XBSは基本聞き役でS-WORDは独自の世界観を持つ男として、メンバー内ではクール2と呼ばれたりしていたとかいないとか。

XBSのラップを聞けばなんとなく、生真面目でシャイな人物像が浮かび上がってくるから面白い限りだ。

XBS自身が自身やNITROを振り返っている動画があるので紹介しておこう。

ここで紹介した人物像そのままにXBSの楽曲を聴いてもらうことで、きっとあなたの中でのXBSという人物が確立されることだろう。

XBSが語る「NITRAID」と当時の原宿



ONE / XBS


そして、なんと言っても忘れてはいけないのが、GORE-TEXと共に客演したNIPPSの楽曲「PARTNERS IN CRIME」だ。

GORE-TEX ⇒ XBS ⇒ DevLargeのマイクリレーは必聴だ。


PARTNERS IN CRIME




S-WORD (スウォード)

【名前】S-WORD (スウォード)

【本名】下村 善正(しもむらよしまさ)

【生年月日】1975年 10月24日

【パート】MIC , 主にFOOK担当

【出身】東京都新宿区

【所属】NITRO , SUIKEN×S-WORD , 東京弐拾伍時

叔父に法学者下村康正を持ち、青山学院大学を中退こそしたが、メンバー屈指のインテリラッパー。

MC名は、以前小田原城にMACAK-CHIと足を運んだ際に、展示されていた刀からSWORDと命名。

後にMUROからSとWの間にハイフンを付けられ、現在のS-WORDとなった。

ラップスタイルはメロディアスなフローを得意としており、NITROの楽曲ではほとんどのフック(サビ)を担当するなど、NITROの中にあってその存在感は大きい。

音楽活動を始めた当初から、MACKA-CHINやGORE-TEXとともにライブ活動を行い、そのキャリアをスタートさせる。

大学生とライブ活動の傍らMUROがプロデュースした「SAVAGE!」という服屋で、服や雑貨を仕入れるバイヤーとしてニューヨークを何度か訪れていく中でヒップホップにどっぷり浸かっていく。

この頃、DABOたちと出会うのだが、実家のそばにアパートを借りて、猫二匹と生活を共に生活をしており昼に起きて文庫本を片手に公園へ行き、お気に入りの木の下で時間が許す限り過ごし、みんながいる原宿に顔を出すような、自由気ままにだが、どこか影を併せ持つ猫のような独特の雰囲気を持っていたそうだ。

バイヤーとして働いていく中でライブ活動では、MUROのサイドMCを努めるようになり、1999年にMUROがドロップした「K.M.W.(King Most Wanted)」に収録された楽曲「WEEKEND FUNK #7」に客演参加し、楽曲デビューを果たす。

そして同年「A Smokin’ Bluff」でソロデビュー。当時としては王道のフローを披露し、S-WORDの名を独り立ちさせるきっかけともなった。

A Smokin’ Bluff / S-WORD


ここからはコンスタントにソロ楽曲をドロップしていく。

2000年には「Neo Phyte」をドロップ。2001年には「MADE IN TOKYO」をドロップ。

同年2001年には、NITROがDef Jamと契約したことを受け、S-WORDもソロ契約を行いメジャーデビューシングル「KROSS OVA’<斬>-swisherz deftime fliez-」をドロップするなど、NITROでの活動をしていく傍らでソロ活動も精力的に行う。

2002年にはアメリカのトラックメーカーLofeyプロデュースの元、クリスティーナ・ミリアンと客演を果たし、メロディアスな日本語でのラップは国内外を問わず多くの反響を得ることになる。


THE ANSWER feat. CHRISTINA MILIAN

更に同年2002年にブリトニースピアーズが来日した際には、クリスティーナ・ミリアンとともにオープニングアクトを務めたり、Jay-Zが来日した際もオープニングアクトを務めるなど、ソロ活動はどんどん活性化していくことになる。

2020年1月30日に開催されたTSUTAYA O-EASTで開催された「LIVE20」を最後に、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDを脱退している。



NITROの活動前夜

ここまでDABO目線で、SUIKEN , GORE-TEX , MACAK-CHI , XBS , S-WORDの6人を紹介してきたが、この6人が出会い行動を共にするようになった1995~1996年頃に後にNITROとして8人で活動を行う大きな出来事がいくつか訪れる。

そのひとつが、皆さんご存じの雨の日比谷野外音楽堂で開催された「さんぴんCAMP」だ。

さんぴんCAMP開催前年にDABOやK-BOMB , SUIKEN , DJ HAZIME のCHANNEL5を始め、GORE-TEX , MACAK-CHI , XBS , S-WORD , などなど後にシーンを騒がすラッパーたちが共同で始めたイベント「ア・バウア・クー」が始まった。

それぞれがライブやマイクジャックを行う、身内だらけのイベントではあったのだが、お客というより演者側(ラッパーやDJ)にこのイベントは好評だったのだ。

そしてこのイベントがきっかけで、元々MUROと親交のあったGORE-TEX、そして雷と親交のあったMACAK-CHIがさんぴんCAMPでMUROのサイドマイクを任されることになったという。

そして、さんぴんCAMP当日出演するMACAK-CHI , GORE-TEXはもちろんのこと二人の勇士を見に来た他のメンバーたちまでもがステージに上がらせてもらえることになったのだ。

マイクパフォーマンスこそできなかったものの、MUROのサイドでラップを繰り広げる仲間、MACAK-CHI , GORE-TEXの背中を見ながら、仲間の活躍に誇らしい反面、次は俺たちの番だ!と、DABO , SUIKE , S-WORD , XBSは熱き想いを滾らせていた。


さんぴんCAMP / MURO




SHAKKAZOMBIEとの出会い

1996年さんぴんCAMPでシーンに名前を轟かせたMACAK-CHIとGORE-TEXだったが、この後も更に彼らに追い風が吹いてくる。

NITROの面々と行動を共にしていたDJ HAZIMESHAKKAZONBIEのバックDJに抜擢されたのだ。

時を同じくしてSHAKKAZONBIEが日本初のヒップホップ居酒屋「龍宮」をオープンさせSUIKENがバーテンを勤めたり、Night Camp Clickがホールスタッフをしていたり、今思えばなんとも羨ましい居酒屋だったことだろう。

この龍宮に足気く通ったNITROの面々にのEPに客演しな俺たちのEPに参加しないか?と、SHAKKAZONBIEから話が舞い込んでくる。

それが、SHAKKAZONBIEの名曲「共に行こう」のVer.Pureだ。

この楽曲では、MACAK-CHIとGORE-TEXに加え、SUIKEN、DABOがシーンに登場し、珠玉のラップを繰り広げ4人の名は瞬く間にシーンを席巻していくことになる。

そして、このあとすぐに、残り2人の人物との出会いが、NITROでの活動を決定づける最後のピースとなっていくのだ。


DELI (デリ)

【名前】DELI (デリ)

【本名】三木 幸仁

【生年月日】1975年 2月9日

【パート】MIC

【出身】千葉県 松戸市

【所属】NITRO , AQUARIUS

当時のDELIはDELIVERLYという名前で千葉県にある市川GEOという箱で”HOT CONNECTION”というグループで活動をしていた。

この箱にGORE-TEXが月一でイベントに呼ばれていたこともあり、DABOたちNITROメンバーも度々この箱を訪れるようになっていた。

この頃のDELIは、パーマかけっぱなしで、伸ばしっぱなしの髪をタムに収め、これまた伸ばしっぱなしの髭面でカラカラと陽気に笑い、いい意味で異様な雰囲気を持つ男だったそうだ。

DABOは当時を振り返り、同じ千葉出身であり、GORE-TEXと旧知の仲でもあったし、K-BOMBとも繋がりのあったDELIにシンパシーを感じていたという。

この事実が後にDELIの代表曲でもある「PASS DA POPCORN」ドロップへの系譜へと繋がっていくのだ。

PASS DA POPCORN / DELI


ただ知り合いが多くいる。地元が同じというだけで、仲良くなれるほど当時のラッパーたちはできた人間ではなかった。

切磋琢磨する中でも俺の方がやべぇ!という、プライドと虚勢とが混同しているだけに他のラッパーを認めるなんて中々できるものではないのだ。

だが、HOT CONNECTIONのライヴを度々見ていたDABOたちは彼らがマイクを握ると「トラックが立つ」ような、トラックが生きる感覚を感じていた。

とりわけその中でも圧倒的なパフォーマンスを見せていたのがDELIであったし、DELIがマイクを握るとその圧倒的な声量や声色で会場を何度も唸らせていたのだ。

血気盛んな、当時のDABO達でさえも認めざるを得ないほどに、DELIの圧倒的なパフォーマン力は当時から群を抜いていたのだから、DABOたちも実力で認めるしかなかったのだろう。

そして、幸いにも当時東京で部屋を借りていたDABOは、諸事情により千葉の実家へ帰ることとなり、渋谷にネタを探しに度々出向いてくるDELIの車に乗せてもらったりしながら親交を深めていく。

そんな東京では、有名レコードショップ「ManhattanRecords」の3階にあった倉庫で仲間内でたむろする時間が増えたことで、俺たちで何かやろう。という話になるのは至極当然だったことだろう。




NITRO初の楽曲制作

引用元:COCOBEAT RECORDS さん

マンハッタンレコードにたむろするようになった彼らの元に、スタッフのひとりである前川という男がある企画を持ち込んでくる。

この前川という男はスタッフながらにプロモーションを行い、マンハッタン内のレーベルからアーティストをデビューさせたいと思っていた。

そこで白羽の矢が立ったのが、他でもないNITROのメンバーたちであった。

そこで制作された曲が皆さんご存じの「REQUIEM」NITRO初の楽曲である。

REQUIEM

ただ、この楽曲をドロップすることが決まったが当時の彼らはあまりに適当で、普通楽曲をドロップするならレコードにグループ名やアーティスト名を記載するものなのだが、グループ名が決まらないままREQUIEMはドロップされてしまう。

しかし、このレコードにMACKA-CHINが ”キャッチコピー的な何か” を記載。

そしてドロップされたREQUIEMは渋谷レコ村でなかなかの好評を得ることになるのだが、REQUIEMを聴いたヘッズ達は、口々にNITROのREQUIEMと呼ぶようになった。

そうキャッチコピー的な何かこそが

NITRO MICROPHONE UNDERGROUND

だったのだ。

ヘッズたちが勘違いするのも無理はなかったのだが、当の本人たちはNITROとか勝手に呼んでんじゃねーくらいの勢いだったと言うから実に面白い話だ。

そしてこの頃から、雷のイベントなどにNITROで呼ばれ始め、DELIもNITROに合流していった。

7人による圧倒的なパフォーマンスが噂を呼び、次の楽曲への期待が高まっていく中で、クルー全員がマイクを回し、しかもラッパーが変わるごとにオケが変わるというパフォーマンスを企画していく。

紆余曲折ありながら完成した曲がこれまたNITROの代表曲「LIVE’99」である。

DELI ⇒ SUIKEN ⇒ DABO ⇒ MACKA-CHIN ⇒ GORE-TEX ⇒ XBS ⇒ S-WORDという圧巻のマイクリレーをシーンに見せつけることになる。

DELIが加わったことで、パンチ力が増し、シーンにNITROの名は瞬く間に広まっていくのである。


BIG-ZAM (ビグザム)

【名前】BIG-ZAM (ビグザム)

【本名】新谷 広幸

【生年月日】1978年 1月18日

【パート】MIC

【出身】北海道小樽市

【所属】NITRO

NITROとしてその名をレコ村いや、東京で広めつつあったNITROの面々は、昼も夜も渋谷宇田川町を中心にたむろしていた。

そんな中、マンハッタン横の吉野家の自販機ゾーンにいつも一人佇む、身長180㎝以上もある金髪の坊主で鋭い目つきをした大男を度々目撃するようになっていた。

その男は自分達が主演するイベントや、遊びに行ったクラブでも度々目撃され次第に顔見知りのような存在となっていく。

その男はヒロといい、顔見知りになってからは会うたびに立ち話をするようになっていく。

ただ、このヒロという男は結構な無茶苦茶でベロベロになってクラブに現れたかと思えばベロベロのままロッカーの上に飛び乗り座ってしまうような男だった。

そんなところがウケるということで、年下のヒロはNITROの面々に可愛がられ次第に行動を共にしていく。

そしてこの頃、REQUIEMBANBULIVE’99とドロップし勢いが付き始めた頃でもあったNITROはアルバムの制作に取り掛かろうとしていた。

アルバム制作に取り掛かる為、次第にマンハッタンにあるスタジオに入り浸るようになり、ヒロも出入りするようになっていったのだ。

NITROの面々がリリックを書いたり、録ったりしている横で暇そうにしているヒロに対して、メンバーたちは「お前もラップやりゃいいじゃん!」と、けしかけたりしていた。

とある日、ヒロに芸名付けちゃおうぜ!というノリになりDABOが「でかいし、存在感がある」という理由からガンダムのビッグ・ザムから引用し、BIG-ZAMと名付けた。

そして運命の日が訪れる。

ある日、その日の収録曲の制作を行っているとBIG-ZAMが「俺もやろうかな」と言い出してきた。

メンバー達にとっては、やっときたぁ!って感じで即イントロマンとしてレックブースに入るやいなや怒涛の狂気とも取れるパフォーマンスを披露する。

そのパフォーマンスにメンバーたちは、おぉぉぉ!っと、盛り上がりそのままバースまで録音してしまったというからBIG-ZAMのパフォーマンスは相当なものだったのだろう。

BIG-ZAMが始めて参加した楽曲は名(迷)曲「ASAMA131」だったそうだ。



NITRO MICROPHONE UNDERGROUND

BIG-ZAMが合流したことで8通りの想いを胸に秘めNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが本格的に始動していく。

クルー結成当初は、売れたいとかビッグになりたいなんて思いはほとんどなく、落ちこぼれだった自分たち「どうしようもない街のBボーイ」の意地を見せたかった。と、DABOは語っている。

それもそのはずで、当時のNITROはシーンに取っては望まれていた存在ではなかったはずだ。

シーンの最前線を走る、雷やRHYMESTER、キングギドラなどの影響により「韻の固さ」が重要視されており、言語表現やステージでの立ち振る舞いなど、”プロ”としての意識の高さでシーンに君臨していたからだ。

そんな中で自分の意地をただただ表現するクルーが受け入れられるとは誰も思っていなかった。

しかし… シーンはそんな彼らを受け入れてしまう。

これまでシーンに君臨し続けていた王者たちとは明らかに違う彼らがなぜ受け入れたのだろうか。

その答えは簡単で、この「違い」こそが答えなのだ。

若さ故に、怖い物知らずで、ただただ落ちこぼれの悲痛な叫びを楽曲に込めたことが、逆にシーンに取って、取り分け若者たちにとって、自分たちの想いを代弁してくれていると受け取られたのだ。

NITROは自分たちの鬱憤や不満をマイクとスピーカーを通すことで表現し、表現できない若者たちはそうだ!そうだ!と言わんばかりに共感する。

まさにヒップホップ!!

この図式がNITROと当時の社会(若者)にリンクして、NITROの人気はうなぎ登りに広まっていく。

まさに、落ちこぼれ達の逆襲が始まったのである。

こうして制作された彼らの1stアルバムは「キャッチコピー的な何か」と同様の名前が付けられ、ドロップから一気にありとあらゆる音楽好きたちのハートをがっちりキャッチしていく名盤となった。

2000年にドロップされた本アルバムは、その年のベストラップアルバムにノミネートされ、彼らクルーは立派にラップグループとして世間に認知されてしまった。

ただずっと一緒につるんでいたツレなのに…

この一言が前編の冒頭で書いた「俺らは結成したことがない」の答えだったのだ。

こうして、アルバムが大好評となった彼らは、Def Jam Japanからリマスタリング版として同名のアルバムをドロップし、Def Jamと契約しメジャーデビューを果たしていく。

ここからは、みんなご存じのNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの時代が訪れていくのである。



NITROまとめ

ここまで、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNのメンバーいや、ツレたちの出会いを中心に紹介をしてきたが、NITROの話は面白いと思ってもらえただろうか?

基本的にDABOさんの月と札を引用させてもらったが、ところどころで僕の感情を込めた言葉に置き換えて僕なりに紹介をさせて頂いた。

この記事を公開した後に、12年ぶりのNewアルバムがドロップされ微力ながらお膳立てをするつもりだったのだが、12/10にドロップされてしまったことはお気づきであるかと思う。泣

皆さんはNewアルバム「SE7EN」はもうお聴きになられただろうか?

残念ながらS-WORDの脱退により、以前に比べ物足りない作品になってしまったことは言うまでもないのだが、今は聞き込み新生7人になったNITROを聴き続けることで、彼らが最初に起こしたムーブメントを今回も巻き起こすような作品になっていることを期待している。

NITROならきっとそれくらいの思惑あっての作品だと信じてやまないからだ。

現在、アパレルにも力を入れており、12年という時を経て大人になる過程で、溜まりに溜まった社会やシーンに対する鬱憤や不満を撒き散らしていき、僕らに共感という感動を与えてくれるはずだ。

これからもNITROには目が離せない!

という訳で、今回はこの辺りで締めさせていただく。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう!

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